平家工房スマイルホーム物語 

 

■第一章 小学校時代

■第二章 楽しかった大学生時代

■第三章 父の会社で社会人として働く 

■第四章 工事の世界から福祉の世界へ

■第五章 勝手に独立。介護リフォーム専門会社設立

■第六章 福祉用具レンタル事業部設立

■第七章 平家工房グループとの出会い

■第一章 小学校時代

私は兵庫県小野市に生まれました。

実家は電気屋で「 和光電気商会 」と言う名前です。

家は真四角でそこら辺には無い建物でした。

 

いじめられはしなかったものの、コンプレックスでした。

大きな看板で「 和 光 電 気 商 会 」と家の屋根部分に張り付けてあるのです。

私が小学校の頃、父親は一般の電気屋をやめて工事現場の電気屋を始めたころでした。

 

その頃はちょうど「 ファミコン 」ブームでした。マリオブラザーズ、ゼビウスなどの最盛期です。

友達が次々とファミコンを購入し休み時間はゲームの話題しかありません。

僕も買ってほしくて買ってほしくて良くせがみました。

 

しかし父親は「 ゲームはあかん。もっと面白いものがある 」といってまずはプラモデルを買ってくれました。

当時は金持ちか貧乏かよく分かりませんでしたが、今思えば比較的貧しかったかもしれません。それでもプラモデルは1個千円するので次々作って行くと当然ファミコンなんかより値段は高かったと思います。それでも父親は「 ゲームより考える遊びの方が良い 」と我々子供のためを思っていてくれていたのかもしれません。

 

小学校3,4年になるとゲームはますます進化しますが「 ゲーム禁止 」の呪縛は続きました。次に目を付けたのが「 ラジコン 」です。手元のリモコンで車が自由に動くおもちゃです。

当時のラジコンは全部手作り。ギアの組み込みからハンダ付け、配線まで結構本格的に作らないといけないし改造やモーターのパワーアップ、など工夫次第でかなり楽しめるおもちゃでした。勝つためにバッテリーをつなぎすぎて一度燃えてしまったこともあります。

 

これも費用で言うと高価な遊びでしたが僕と兄で近所に流行らせた記憶があります。

学校の面談で5年生の時に「 小林君はラジコンバカです。授業は全く聞いていないですね 」と言われました。

 

僕の「 ものづくり 」のルーツはここにあると思います。

いまでも「 工場見学 」や「 〇○ができるまで 」と言う番組があれば子供をはねのけて食いついてみるくらい「 どうやってこの製品が作られているのか? 」を考えると楽しくて、楽しくてワクワクしてくるのです。そう、小学校のとき味わったような高揚感に包まれます。

 

今となっては家造りとは究極に責任の重たいプラモデルかもしれませんね。

中学校になると父親の電気工事の事が気になり始めました。ちょうどバブル絶頂期で仕事が沢山あって仕方がなかったそうです。父親の会社も急激に伸びていました。ちょうど高校生の時に恥ずかしかった自宅をつぶし父親の社屋が建ちました。 常にものづくりが気になっていたのかもしれません。

■第2章 楽しかった大学時代

中学、高校と地元の学校に行き、親からは「後を継げ」とも言われませんでしたが、自然と大学も「 電気工学科 」に進み電気の道に進みました。大阪の摂南大学という所です。大学は「 電気工事 」の事なんて教えてくれません。興味のない僕は仲間と一緒に楽しい青春を過ごしました。田舎から都会に出て本当にすべてが自由になった気がしました。人生の中でも本当にかけがえのない自由な楽しすぎる時間でした。

 

仕事が減るかもしれませんが、全てを正直にお話しますと当然学生時代など勉強するはずも無く、アルバイトメインで親のすねをかじった大学生活を送らせてもらったと思います。父親も「 大学生活の4年間は大人として遊ぶための時間で、人生で一番楽しい時間や」と言う考えの人間でしたから、本当に僕も4年間色々と実になる人生勉強をさせて頂いたと思います。通常なら私立の大学など行ける余裕もなかったのですが、たまたま時代はバブル時代!。タイミングも非常によかった。私は運が良かったんですねえ!
大阪で、ボロアパートで独り暮らしを始めました。家賃は3万円。

 

当時早く家を出たかった一心でした。その年頃だと当然かもしれません。
独り暮らしをしだしてから、それはもう楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。まさに「 自由 」なのです。

 

一ヶ月間友人と野宿旅行したり、北海道では色んなおじちゃんに泊めてもらったり公園や車中泊しながらノープランの旅行したり・・・・、野宿をしながら自転車で淡路島一周したり・・・・。下宿先でいつもドンちゃん騒ぎをして(僕のボロアパートはたまり場)下のうどん屋さんに木の棒で殴られたり・・・コンビニの夜勤で酔っぱらいのチンピラに「 おでんに髪の毛が入っとるやんけ!全部変えろ!」といちゃもん付けられたり・・・。コンビニのレジでお客さんの娘さんを連れてこられて「 この娘と結婚したってくれ 」と言われたり・・・。大阪って面白い町やなあ・・・。と思いました。

 

今でもその時代の友人と機会があれば集まります。大阪では本当にいろんな意味で色んな勉強をさせてもらいました。路上駐車のテクニックや割り込みのテクニックなど・・・。郷に入れば郷に従えですね。アルバイトも何十種類したでしょう?なかには「クビ」になったこともありますが、当時は若かったので相手の立場などあまり考えられなかったのでしょうね。自分もそうであった故に同じことをされても許せるようになるのかもしれません。

 

そんな学生時代を振り返り新人の社員を見ると「 若いのに偉いなあ!」と感心してしまいます。勉強以外の色んな手段で何とか留年せずに4年で卒業できたのは今でも奇跡としか言いようがありません。そんな楽しい学生時代を卒業し社会人になるのがすごく嫌だった思い出が今でも忘れられません。

■第3章 父の会社で社会人として働く

まずは現場の職人として
 

一九九八年バブル終わりごろ。半強制的に入った「 ワコーテック 」父の会社ですが、当時一部上場企業大手の下請けとして大型物件の「施工」をしていました。恐ろしく分厚い図面が山積みでした。まずは職人として、三木ホースランドパークや三木青山のサティ、公園や神戸の大型マンションなど職人さんと一緒に働かせていただきました。自分では頑張っているつもりだったのでしょうが、今思うと非常に迷惑だったことでしょう。

 でもそんな現場での体験は今になって知識として非常に役立っているのは言うまでもありません。失敗もたくさんしました。でもいつも先輩がカバーしてくれていました。工事ばかりしていると人との会話が少なくなります。今の職業からすると「 愛想の無いやつ 」であったことに間違いはありません。そのまま続けていたら・・・・少し恐ろしい気がします。

 

この時二十三歳。1年ほど職人経験を積ませてもらいました。現場での作業は真夏・真冬冷暖房も何もない環境下での体力仕事に職人さんたちのすごさを知りました。真夏などは一日に5Lほど水を飲みます。汗も半端なくかきます。ほんの一か月で5~6kg 痩せました。

 

工事現場は職種によって立場の強弱があり電気工事は基本的には建築工事の邪魔にならないように気を使う側の立場でした。でも知らない事だらけでしたので「もっと知りたい」「面白い」と思うようになって行きました。何でも真剣にやると楽しいものです。逆に真剣にしないと何も楽しくないのかもしれません。

次は現場監督として・・・

 

「地下鉄 神戸湾岸線」の現場に放り込まれたのです・・・・。
父親は僕の気質を良く見抜いていた?んだと思います。初日に元請け会社の一部上場企業の担当の人に「 よろしく 」と一言だけ言って去ってしまいました。

私は「 元請?下請け?この人たちは偉いの? 」


なーーーーんにも分かりませんでした。バカというか本当に世間知らずだったのです。

​「 何したらいいんスか? 」というと、みんなしらけた顔で(8人ほど)
「 う~ん・・・・ 」初日は机に座ったまま・・・・相手にしてくれませんでした。

当時の僕は礼儀知らず、敬語知らず、怖いもの知らずでした。
当然下請け会社というのは大手の元請け会社から仕事をいただくわけで、継続的に仕事をいただくことが重要です。当然失礼の無いようにあまり出しゃばらずに上手に仕事をしながら営業することが大切なのです。本来は・・・。

次の日は隣の席に歳の近そうな兄ちゃんが2人いたので名前を聞き・・・勝手に
「 そうか・・・今日から君はアリモッチン・・でいこか! 」(有本さん)
「 そっちの君はモンリーって呼ぶけどええやろ? 」    (森野さん)

と下請け(仕事をもらう側)なのに偉そうに悪ふざけでアダ名をつけたことを覚えています。当然オールため口です。よくよく聞いたら2,3年上でしたが


「 ええやん!今更態度変えたらおかしいやろ? 」
と何の悪気も無くそのまま突き通したことを覚えています。彼らも下請けの若造に初日からアダ名をつけられると思っていなかったのでしょう・・・。

結果的には新鮮だったのか、初日から同級生のように本当に仲良くさせてもらったことを覚えています。そこでも若気の至りで随分と出しゃばった事をしたかもしれませんが、上場企業のような大きな会社の仕組の良い所、余り良くない所など、色んなことを肌で感じました。そこの方々にも色んなことを教えて頂きました。特にパソコンに詳しい方が一人おられ、LANのネットワーク構築等で非常に勉強になりました。自分自身で配線からLAN構築できたことで後々のシステムづくりに非常に役立ちました

若かったのでやっていたことは無茶苦茶だったかもしれませんが、本当に勉強になり「日本にはこんなスケールの大きい仕事もあるんやな」と思いました。

 

また地下鉄のようなスケールの大きな工事(毎朝朝礼では一〇〇人以上の職人さんが並びます)にかかわったことで人間性も非常に変わったのだと思います。
地下鉄などは一つ忘れ物をすると2~3キロ歩いて帰らねばならずトイレも大変・・・さらに一つ気を抜くと死亡事故が起こるような現場でしたから、職人さん達の命を預かる責任の重さを感じたことを覚えています。僕自身もボルトが一本止まっていなかったら確実に命を落としていたという事件がありました。

自分で勝手に死ぬのはいいけど、他の方に迷惑をかけてしまう所でした。本当にいい経験でした。本当に仕事にかかわる皆さんには良くして頂き許容して頂いたと思います。この時二十四歳でした

 

 

今度は県営住宅(箱物建設現場)へ

 

ちょうど慣れて楽しくなってきた頃、地下鉄半ばで小野市内の県営住宅新築
8戸×5階/40戸をさせてもらいました。ここでも父親は図面を手渡しただけ。

なーーーーーんにも分からん。
地下鉄も同じく、ここにも父親はほとんど来てません・・・。
多分他の事で忙しかったんでしょうねえ。

 

でも父親も勇気がいったと思いますよ・・・ほぼ何の知識もない僕に出来ると思って任したのだろうか?そのほったらかし具合が本当に尊敬します。
僕だったら同じようには出来ないかもしれません。大赤字もあり得ますから。

元来は他の会社などで経験を積み「 よその釜の飯を食う 」ことで色んな事を身に着けることも考えたかもしれませんね。

大型工事の場合実行予算が数千万円という単位です。もちろん失敗すればすぐに何百万円という赤字が出るような仕事です。レベルは市営、県営、国営とレベルが上がっていき、承認をもらったり話をする場所も市役所、県庁、など変わって来ます。

 

ここでも運よく・・若かっただけかもしれませんが、建築監督やイカツイ型枠工事の職人さんたち、鉄筋工事など、たたき上げの職人さんに非常にかわいがってもらいました。僕は基本的にどんな状況でも楽しもうとするタイプですが、この現場も本当に楽しかったことを昨日のように覚えています。腕っぷしには自身があったのでよく若い型枠大工さんたちと腕相撲をしました。

そんな中でも型枠職人さんは皆若くエネルギッシュでした。
若くして「 社長 」というか「 頭 」というか何十人もの職人を束ねる職人さんがいました。二十五歳そこそこなのに、人一倍オーラが違うのです。
口数は少ないけれど、何十人もバリバリに作業している中でもすぐに分かるほど違うのです。動きも、指示も効率も、目配りも。

日当を払う側ともらう側、ここまで違うのかと思い知らされました。
人一倍の苦労と覚悟が体からにじみ出ているのです。

みんな本当に僕のような若造にも気を使って下さいました。
しかし自分の電気工事といえば誰も教えてくれないので、そこらじゅうの県営住宅を実際に行って研究して回りました。給湯器などが納まっている配管部分や収まり施工方法など、住民に怪しまれながらも検針のふりをして見て回って研究し、何とか無事県営住宅を仕上げました。若かったので徹夜もたくさんしました。

本当に全く分からないことばかりでしたが、ここでも建物の仕組みや大変さ、建物の所轄や所有、権限など色々なことを学ばせてもらい、現在の血となり肉となっているのです。実際の現場を見ることで内部の構造や材料なども良く理解できるのです。

当然失敗も沢山ありましたが、死ぬ気で考え抜くと必ず解決方法があること、絶対に逃げず本気で取り組むと周りが協力してくれること、など色々有難い体験をさせてもらいました。人生に遠回りは無いのだと感じました。そして僕自身の素材としては職人よりも監督業の方が向いている、楽しいし広い視野で物が見れる、自分の話し方や進め方次第でそれなりの方向に持っていけることが分かってきました。この時二十四歳でした。

 

そんな電気工事の現場を何件かして「  工事 」とは現場ごとにきちっと区切りがあり成果が目に見える。分かりやすい達成感を得ることが出来る素晴らしい物だと感じました。非常にやりがいのある仕事でした。時期はバブルのはじける手前、いやバブルがはじけた直後だったのです。

僕はまだ現場で一生懸命だったのですが、工事業界、いや建設業界ではバブル後恐ろしい倒産ラッシュが待っていました。当然下請けメインだったワコーテックも影響がないはずがありません。毎日家族で会議をしました。

​最終的には「 ワコーテック 」の名前は残すものの、父の英断で30年間やり続けてきた電気工事業に事実上終止符を打つ決断をしました。

​というより最終的に電気工事は「 2足のわらじは履けない 」と強く断ったのです。
やはり、やめるのは非常に惜しかったのだと思います。
廻りの関係者も規模の大きさゆえに非常に惜しんでおりましたが、父にはきちっと先が見えていたのだと思います。

僕と兄で福祉の会社を立ち上げることを決めたのです。その頃ちょうど二十五歳。今の嫁さんと知り合い結婚した年です。非常に不安定でまさに「 背水の陣 」。この事業で失敗したら何もかも失い0からのスタート。

非常に張りつめた面持ちで各現場のもろもろを整理しながら準備しました。
工事の人間から福祉の人間へ・・・そんなこと自分にできるのだろうか?現場でヤイヤイ言っているのが大好きだったのにそんな事やっていけるのだろうか?当然不安の方が大きかったのを覚えています。ただの建築現場のにーちゃんでしたから・・・。

■第3章 工事の世界から福祉の世界へ

まずは「 福祉体験館 」の建物が完成し、ついでに事務所の2Fに僕たち夫婦が住むことになりました。まずは僕と兄の2人でスタートしました。その後電気工事時代からの若手2名も含め4人でスタートです。

最初は分からない事ばかり。介護保険がスタートして2年ほど経過していましたから、先駆者や大手が大きなシェアを占めておりました。
営業先でも電気工事からの転身と聞くだけで
「金儲け」「どうせ中途半端」など非常に厳しい声が多く長い間相手にすらしてもらえませんでした。
これも今になってみると当然の事であったと思います。半年間は全く仕事が無かったのです。基本的にその時のスタンスは兄が「 営業 」僕が「 現場・配送 」というスタンスでした。

兄は仏のような人間で非常に福祉に向いている人間です。
僕と違って、きちっとどんな人にも気を使えるタイプなのです。
そんな兄にはたくさんのことを勉強させてもらいました。
その中で一番商売の中で大事なことを教わりました。

当時の介護ショップは「 殿様商売 」と申しましょうか、ショップ側が非常に強い権限を持っていました。また卸元も「 100万円の預り金がいる 」だとか「 一流大手との取引が無い所はお断りしている」だとか「 Aショップとの取引が大きいのでお宅とは取引できない 」とか非常に今では考えられないような環境でした。

​お客様がカタログから「 この靴下がほしい 」といっても合計でいくらか以上の購入でないと「 送料 」がかかるので、注文量がその額に達するまで待ってからショップは発注するといったことを平気でしておりました。
「 小口の注文は納品まで時間が掛かるので1、2週間待って下さい 」てな感じで・・・。1個で100円の儲けしかないのに500円の送料自腹をきらないと翌日に配達できない!

だれもしませんよね・・・・。そして利益上の観点から、どこも一切在庫を持たずにやろうとしておりました。当然顧客目線でいうと「 遅い 」「 高い 」「 不親切 」になるわけですが、ショップとしては赤字が出るので当然我慢しなさい、というような対応であったのは間違いありません。

兄は「 お客様が望んでいるタイミングで物をお届けできねばおかしい。ご迷惑だ 」と考え、たとえ赤字が出てもお客様のご要望のタイミングで納品するようにし始めました。

​最初は僕も反対しましたが、兄の言うとおりであることを確信し、利益度外視でお客様のご要望に沿えるように2人で走り回りました。いつも運送屋さんに電話をして「早く持ってきてくれ 」または「 ○○まで行くからそこで荷受けしてくれ」と無茶を言っては配達したのを覚えています。

今では当然かもしれませんが、お客様のご要望を聞かずに、支持して頂けるはずがない。最大限のことをやりきってダメなら頭を下げねばならない。とことんまで聞きまわってそれでも希望納期に間に合わないか?常に代替えや策はないか?と本当に真剣に考えたことが次なる新しいサービスや営業戦略に繋がりました。当然本当に後が無かったのです。必死でした。

同時にデイサービスでレクリエーションなどに困っていたのでレクリエーション用具などを自腹で購入し無料貸し出ししたり、福祉用具なども一度使っていただかねばわからないし、使ってみれば邪魔になることもある、喜んでもらうためにはデモ品がいると考え福祉用具の「 デモサービス」もしました。非常に手間も費用も掛かりますが、お客様に喜んでいただく、納得していただくには必ず必要なことです。いまでもデモ品サービスはなかなかできないところが多いのが現状です。(管理が困難)

また当時は資金の面から大手卸会社からレンタル商品を借りて、大手卸会社のカタログにスタンプを押して価格を決めるカタログにしていました。ですからどの会社も同じカタログでパッとしない。そこでどこもやっていなかった「 自社カタログ 」作りもしました。この経験も大きく今に生きています。ホームページも作りました。

​そして自社倉庫で自前の製品で自前の消毒設備で、自前の管理システム。システム面やソフト面などでも強化を図り徐々にお客様に支援して頂けるようになってきました。皆様がこんな無知な若造達に応援のエールを送って下さったのです。頼りにしてくださるのが本当に嬉しかったのです。

​途中からは僕も営業に参戦し、システム面やソフト面、仕入れ先の開拓や新規開拓など人数が少ない分あらゆる分野の仕事をしました。特に営業兼配達であるので地域も広範囲で非常に仕事はハードでしたが、本当に楽しくて仕方がなかったのだなと後で感じます。
(その当時は逃亡して、遠い南の島でウクレレでも弾いてトロピカルジュースを飲んでやろうと思うくらい辛かった)

最初は最小限の装備と人数で始めました。福祉用具の仕事は少ない人数でやると本当にハードで分刻みのスケジュールです。気づけば一日中トイレに行けなかったことも多々あります。一日最高で30件ほどの納品や打ち合わせ、集金、契約などに回った記憶があります。たまに人と話をしたくなくなるほどハード。よく倉庫や展示用のベッドで寝てしまっていることもありました。

​軽バンしかなかったのでベッドを積むと車いすやポータブルトイレが積めない・・・なので車体上のキャリーにくくりつけて行って落としたことも多々あります。とかく時間が無く一分一秒の間隔で回っておりました。当然お客様のところでは急げませんし、途中で説明を止めるわけにもいきません。それくらい異様な時期もありました。
 

人数が増える度にシステム強化、そしてある時期になったときにシステム変換が必要になります。自宅がすぐ下で長時間仕事がしやすい環境であったこともあり本当に目の色を変えて毎日深夜までシステムづくり・ルール作りなど業務とシステムづくりを頑張った時期でもありました。でもそんなハードワークが色んな知恵を生み、今の自分の下支えになっており自分の糧になっているのは言うまでもありません。当然知識が無く、考えが浅はかであったが故のハードワークであったのも当然ではあります。

​システムの開発

  • ソフトの導入・全社員共有

  • 取引先の開拓

  • 価格交渉

  • 経理

 

で非常に勉強させてもらいました。4年間死ぬ気で頑張ることで徐々に軌道に乗り始めていました。この頃二十五歳から二十九歳の4年間です。

 

この仕事で人間が変わる・・・

福祉体験館在籍時は福祉を通して僕の人間性が大きく変わった時期でもありました。それは「 感謝 」です。人生の大先輩・八十歳や九十歳の大先輩が僕たちのような若輩者に「 ありがとうね 」と何度も何度も言って下さるのです。

本当は足りない部分だらけのただの若造に。言われるたびに
「 とんでもない。でも、もっと喜んでいただけるように努力したい! 」
自然にそう思うようになってきました。
確実にこの方に「 変えて頂いた 」と思えるような方に出会えたことは本当にラッキーだったかもしれません。​電気工事をしなくて良かった(大げさですが)と思ってしまうくらい人間が変わった。そして「 感謝 」というものの偉大さを思い知りました。身近な人間ほどなかなか「 感謝 」って思っていても言えないんです。でも「感謝」というのは世の中で一番大事なことかもしれません。永遠のテーマです。

その頃の住宅改修

その時同時に「 住宅改修 」という今の本業であることも上記業務と兼務しておりました。住宅改修とは手すりを付けたりスロープを付けたり家で安全に過ごせるように介護保険の補助を使って工事する仕事です。これは今もどこの介護ショップも一緒で兼務していることころが多いのです。しかし制度が変わり・事前申請と・事後申請の2回に分けて申請し承諾をもらわねば介護保険の補助を受けて工事することが出来なくなりました。

そこからでしょうか・・・福祉用具の配達と住宅改修の時間の使い方に非常に差が出すぎて、大好きだった住宅改修をしたくなくなってしまったのです。
福祉用具は小さい仕事、配達、打ち合わせの連続です。
住宅改修は打ち合わせ、工事、など一軒一軒に要する時間が非常に長く、福祉用具の仕事時間を非常に圧迫してしまうのです。


かといっていい加減なことはできないし、それだけのことで人も補充できない。
お客様の家にお伺いできる時間は日中限られています。

​面倒くさくて金額が少ない割にすごく時間を費やすのです。その上小さな追加や法上のグレーゾーンが多く、各機関(病院やリハビリ)とのやり取りも非常に多いのです。

​介護ショップだけでなく

●理由書を書くケアマネージャーさんも非常に面倒・リスク大(報酬無しも多い)

●住宅改修をする介護ショップも儲からない割に時間とリスクが大きいので面倒

●工務店も本当に小さい仕事ばかりでメリットが無い。

●お客様との調整だけでは話が進められない
●すぐ工事にかかれないし面倒なことをいろいろ言われる。

 

儲からないことが分かってすぐに営業を辞めてしまいます。

​簡単に言うとサービス提供側からしたら、3悪の商売なのです。

そして社員教育にも非常に「 好き・嫌い 」が分かれ、統一したサービスが難しい。建築のことまで考えねばならないので「 そこまでやってられへん 」という風潮になりがちで、元来は手すりのほうが良いのに福祉用具を奨めたりするようになってきてしまったのです。自分自身も・・・。

当然福祉体験館でも「 住宅改修はやめるべき 」という判断が下されようとしていました。 僕は常々30歳までには自分で会社を作り自分で考えたサービスを展開したいと考えていました。部下も育ち自分の地域も任せられるようになっておりました。歳は二十九歳になっていました。

 

そこで父に「資産や援助は一切なくていいので、住宅改修の専門の別会社を作るから住宅改修は一任してほしい。」と言いました。僕からすると当事業内独立や別部門創設の方が簡単でリスクが低いのは当然でしたが・・・・。​事業内独立や部門創設、親会社からの出資を伴う子会社は必ず「 甘え 」が出ます。頑張らなくても最低限の給料がある、失敗しても「 あかんかったなあ 」で済む。

 

そんな軽い気持ちでどんなことをしても成功しない。
福祉体験館も「 背水の陣 」で失敗したら一家が路頭に迷う。
そんな危機感があったから何とかやって行けたと思います。

ただでさえあまりお手本の無い分野での起業の上に甘えがあってうまくいく筈がありません。だからややこしいけど、当分はお客様にご迷惑をおかけするかもしれないけど「 別法人 」としてお願いしました。

父親はというと、
儲からないし、本業に支障が出る、足を引っ張る分野
だからやめようかという話をしているのに、それを専門でするといったので当然大大大反対でした。父からすると苦労が目に見えていたからでしょう。

「 うまいこと行かないに決まっている 」の一点張りでした。


福祉体験館の方はやっと何とか先が見えていましたから、何をわざわざ借金してリスクの高い苦労をするんや?という気持ちだったと思います。

しかし僕にとってみれば福祉体験館の設立後数百人の方に接して手すりや改修工事も社内では進んでやってきました。基本的に工事は大好きですから。
今まで行けなかったトイレに自力で行けた・それによって非常に喜んでもらい、涙を流してくれた、そんなお客様のことを思い出したら「 絶対やめたらあかん! 」と思わざるを得なかったのです。

 

「 みんなが嫌がることでも、うちがまとめてできたら家族ぐらいは食わしていける 」という自信はありました。そして何よりも住宅改修を辞めると同業他社より劣る部分も出てくるわけなので福祉体験館もシェアを落とします。分けることでのマイナス面もあるかもしれませんが、グループ会社という形で両社タイアップしながら各専門性を磨き、仕事を紹介しあえる方が、必ずマイナス面よりプラス面が大きくなるのではないだろうか?みんなが面倒でやりたくないだけで水面下の需要としては絶対にあるのではないだろうか?確信はありませんでしたがそう思ってなりませんでした。

一人からのスタート。収入0からのスタート。失敗したら借金が残る。そして古巣へ戻るようなことは絶対にできない。 「 最悪ダメならコンビニで夜勤でもするわ 」
そんな言い分を受け入れてくれた奥さんには本当に今でも感謝しています。
奥さん以外の人間の反対は押し切れますが、乳飲み子を抱えた奥さんに反対されると本当にキツイのです。相当の勇気が要ります。「 自分勝手なのか? 」と思い悩むことでしょう。

父親からははっきりした了解をもらったかどうかは覚えていませんが、半ば勝手にやめる時期を決め会社設立の準備をしました。二十九歳の冬でした。
他にもいろんな職業での起業も考えておりました。

基本的には自己資本が少なくて体一つで開始できるものを。
便利屋      ・・・この地域では少し難しいかな?
おそうじ本舗FC ・・・掃除に金払うかな?

​違う道を選択していたらどうなっていたでしょうね?

​最終的に介護の住宅改修に決めた理由は

 

●お客様にとって良い事業 (面倒な申請等してくれてスピーディに補助が受けられる)

●社会的に良い事業    (転倒を予防し医療費の増加に少しでも歯止めをかける)

●我々にとって良い事業  (少人数ながらでも雇用が生み出せる)

 

であり、みんながやりたがらない仕事であったからです。

何よりも頑張れば「 喜んでいただける 」のが一番の魅力でした。
3悪の商売も視点を変えれば「 3方良し 」の商売になるのです

■第5章 勝手に独立。介護リフォーム専門会社設立。

どの会社でも会社を分けることによって誰しも「 兄弟不仲説 」を噂されるようです。それだけ兄弟でやって行くのは難しいという事でしょうか。私の独断での独立で、それは免れたと思います。

しかし、兄弟だけの話ではなく、会社を作ってきた父親が大きく影響します。

父は当然経営者としての経験も資質も上回っています。でも若い僕は「意地」だけでした。兄弟は関係なく父親とは当時馬が合わず物別れした感じでしょうか?大喧嘩をしました。父親は兄弟二人でないと今の会社は上手く行かないと思っていたかもしれません。お互いの長所も短所もよく分かっていたのでしょう。

​独立後数年は思い通りにならなかったせいか、よく思っていない時期があったようです。

自分の事業計画プランが崩れ不満もあったのでしょう。

しかし僕は父親のために生きているのではない。自分は自分の人生を自分で作る。

そう思っていました。

兄とは今でも月に一度は一緒に飲みに行きます。
仕事の事を話すこともあれば、子供のことを話すこともある。
今でも良き相談相手です。お互いの会社を磨き共にレベルアップする。
そんな環境を作り出せたのは本当に良かったと思います。

 

 

会社設立の準備

 

会社の設立は引き継ぎをしながら自分でしました。
通常は司法書士などに頼むのでしょうが資金的な余裕もなく「 勉強のため 」と自分でしました。まあ・・次やれと言われてもできませんね。何度書類を突き返されたか・・・。資金的余裕もなく、まずは「 有限会社 」からはじめました。今は全て資本金0円でも株式会社です。会社名は「 有限会社シニアハウスプラン 」です。覚えにくいですね。高齢の方相手なのに・・・・。

候補は「 シニア建築 」「 シニアプラン 」「 シニアプランニング 」今皆さんが良く間違えられる名前も候補にありました。そして言いにくいわ、覚えにくいわ、舌を噛みそうになるわ・・・。
プランだけを前面に出すと「 ケアプラン 」(ケアマネージャさんが組むプラン)と勘違いされるので間にハウスを入れました。これには僕の思いがあります。

将来的には手すりをつけるとか介護リフォームだけの分野ではなく、新築工事、施設工事、介護専門の住宅建築や、賃貸、住宅レンタル、住宅設備の販売・開発に至るまで。これから増え行く高齢化社会に向けて幅広く「 住 」に関する仕事をしていきたいという熱い思いがあったからです。逆に言うと「 ハウス 」を入れることで「 つぶしの利く・何に転換しても分からない会社 」にならないように、「住」の分野で骨を埋めるように自分に釘を刺したのです。不安はありますが「 これで生きていく・飯を食っていく 」と決めた以上そこから逃げることはしたくなかったのです。命を懸けた瞬間かもしれません。​途中あまりにもお客様に覚えて頂けなくて「 社名変更しようか? 」と思いましたが・・。思いとどまり、まだ「 シニアハウスプラン 」として続けています。覚えてもらいにくいとか実は関係ないのですね。

 

​設立は平成十七年二月二十二日!そこから今までお世話になった営業先のケアマネージャさんにご挨拶に回りました。新しいスタートでもありました。

 

スタート直後・・・

今回の「 シニアハウスプラン 」として新たにスタートするに当たり初日からつまづいてしまいました。予想していたとはいえ皆様から「 何のために?意味があるの?小林君が今までどおり両方してくれたら済むじゃない?」まさにおっしゃる通り・・。一軒づつ説明して回りましたが

「 なるほど!それがいいね! 」とは誰一人言ってくれませんでした。
当然の結果とはいえかなりショックでした。

「 根気強く説明して分かってもらうしかない。最初からうまくいく筈が無い。でもきっと仕事をこなすうちにそう言うことか!って分かってもらえるに違いない 」

そう信じて特に今までお世話になった地域を重点的に営業しました。

最初は一人なので父親の事務所の一角を区切って賃貸しました。
きっちり家賃はとられております!6万円も。
もう少しまけてくれると思ったけど、やっぱり商売人なのできっちりとります。

一人で電話対応・事務処理・図面・書類提出・段取り・発注・現場・たまに施工・資金繰り・各種ソフトやシステム整備・・・現場を出るときには自分の携帯転送にして出て行きました。今までの営業先の方々はそれでも気にせずお仕事を言ってくださいました。

本当に涙が出るほど嬉しかったです。
ケアマネージャさんからすると工事だけ別にいう(何度も業者を分けて訪問せねばならない)ような面倒なことをしなければならないのに、それでも使ってくださった恩は今でも忘れません。件数は初年度で250~300件ぐらいはありましたので一人でこなすには酷でした。

現場から戻り、プランを考えたり見積もりしたり提出資料をそろえると毎晩深夜3:00ぐらいでした。「 あかん・・死んでしまう・・ 」
普通のリフォームと大きく違うのはその工事にかかるまでの調整と各種申請書づくり、書類調整、説明打ち合わせの多さです。これが無かったら何でもない仕事量なんですけどね。くじけそうになりましたが、仕事が無いことを思うとうれしい誤算でもありました。

それでも許容量を超えだすとどんな裏技を使っても同じ時間に色んな案件が被ってくるので物理的に難しくなってきました。「やっぱり従業員募集せなあかんなあ・・・」

何度募集をかけてもなかなか来てくれません。
世の中は厳しいなあー。そらあ、こんな会社に来んわなあ・・・。
もっと頑張らんとあかんなあ・・・。なんて情けない・・・・。
取引先だって、銀行だって、・・そらそうやわなあ・・・・。

まあ、あまり落ち込んでいる時間もありませんでしたが現在と同じく自分の能力の無さにため息が出る日々でした。

 

募集しても数か月間も、何回出してもだれも来てくれません。
そこで心配してくれた元部下(現在福祉体験館の課長)の寺井さんが、「大塚さん」という女性の現職の経験者を連れてきてくれました。
福祉用具の納品現場で逢ったそうな。
経験者と聞くや否や「 あなたにぴったりの職がある  」と騙して?
連れてきてくれました。

今の年齢は半世紀を越してますが、当時は四十代前半でした。
本人曰く「 寺井さんに勝手につれて来られて、頼みこまれた 」
そうな・・・彼は困っている僕を見て一生懸命探してくれたのでしょうね。
ありがたい話です。

​疲れ果てていた僕はパンをかじりながら履歴書なんか見ずに
「 ほな、すぐ来てな 」で面談は終わりました。
僕    「 パン食う? 」
大塚さん 「 いりません 」
そんな会話だけ覚えています。

それからは、忙しい傍ら勝手も分からなかったと思いますがシニアハウスプランの発展に協力してくれました。
ここでは書ききれない位、本人も苦労したことでしょう。
女性ならではの視点でプランニングしてくれるのが特徴です。
お客様のために色んな事を一生懸命考えてくれます。

現在は退職し現場を離れていますが、いつもうちの事を心配してくれ、また応援してくれています。うちの会社でも今尚語り継がれる伝説の女営業ウーマンです。本当に会社として尽力してくださった事を感謝します。

 

 

● 設立3年目/「  株式会社シニアハウスプラン 」に社名変更・増資


ハンコや印刷物すべて作り直し・・・結構費用が掛かりましたが、社員方々にとっても「株式会社」の方がいいであろうとのことで名前だけの事ですが、変えました。ここでようやく「有限会社」のままにしている会社の理由が分かりました。名前が変わりお金が掛かるだけであとは何も変わらない・・・。

● 設立4年目 / 事務所建築・本店移転


倉庫も手狭になり社員方々にも迷惑をかけていたので思い切って事務所を建てることに。夢のような話でしたが、真剣に突き進めば見えてきました。
福祉体験館も倉庫が必要な中で、うちの部材倉庫などを一つ借りていました。
どう見ても迷惑が掛かっておりました・・・。肩身も狭い・・・。ご迷惑・・・。

​当然儲かって建てたわけではないので銀行から融資を受けて事務所を建設しました。土地の取得についてのみ、父親の協力を得ました。これには本当に感謝しております。

偉そうに言っても人生経験も浅い!無知な小僧だったのです。
ここでも自分の不甲斐なさを思い知らされました。
父はやはり苦労人なのです。

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ここで農地転用や農振除外、地目変更など一連の建物に関する経験をしました。
なかなかサッと行かないもんなんですね・・・。時代によって法律も変えていかないといけない部分も多くなってきていると思います。

建造物については色々勘案してコストを考えた結果、「  関西ハウス工業 というプレハブメーカーさんにお願いすることに決定しました。2日で建ちました!はやい!時代ですね。
見た目がシンプルすぎますが、贅沢は言えません。
ただでさえ、実力以上の事を背伸びしてしたのですから・・・。
中身の工事は営業後に夜中コツコツと自分で造作しました。免許もあるため、下水、電気、大工、塗装、外構、出来る所は全部一人でやりました。楽しかったなあ!!。だって、自分勝手にできるんだもの。5~6kg 痩せました。ダイエット効果もありましたね。
最後のクロスや内装などはプロに!僕がしたらグチャグチャになりますものね。

しかし建物を建てたからと言って設備機械のように利益を生むものでは無いので色んな部分をケチりました。便器は展示放置品をもらってきて掃除しました。事務所建築に関しては保持資格が役に立ちました。

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外部まで予算が無く、砕石のままで済ますことに・・。勇気が無かった・・。

​その思い3年越しで平成二十四年にアスファルトの駐車場が完成しました。
社員共々「 やっと会社らしくなった 」と感動しました。

​。

​色んな苦難を経て人の入れ替わりも多少ありますが、今現在住宅改修部は若き獅子「大東部長」を始め、住宅改修部の社員数は営業3人、施工1人、事務1人の計5人体制になりました。 益々増員し伸びて行くと思います。工事件数も当初一人では250件もすれば大変だったのに今は年間大小合わせて1000件近くのリフォーム工事をこなせるようになりました。

私は本当に良き人材に囲まれて本当に幸せだと思っています。

 

才能なし、人脈なし、財産なし、やる気だけあり!で何とか乗り切って来られたのは本当に社員の皆さんのおかげです。人間は一人では何もできません。

色んな人に助けてもらって会社って成り立っているんです。

 

そんな住宅改修の仕事をしながらもずっとずっと「 新築事業をしたい・・・・・」いう気持ちは薄れませんでした。

■第6章 福祉用具レンタル事業部設立

住宅改修部がうまく回りだしたのですが、我々は介護保険制度に縛られた仕事でもあります。

国が今日から法律を変えたら追従せねばなりません。ソフトに何百万掛かろうが事業所がつぶれようがそれは関係のない話です。

 

色んな制度改正の中で自分が初めに福祉体験館で経験した「福祉用具レンタル」の事業部を作らざるを得ない状況になりました。国への保険請求やその他雑務、事業所の立ち上げなど福祉体験館での起業経験があるものの、かなり大変な事になってしまいました。

 

しかし「 やる 」と決めたらやるしかない。一年間は夫婦で担当し何とか一人分の給料が出るくらいまで二人三脚でやりました。そこから3年をかけ正社員1名、パート3名で何とか業務をお願いできるようになりました。どんな簡単な事でもそれなりに日数が掛かります。

この2つの事業部を10年以上真剣にやる中でずっと思う事がありました。

行く先、行く先で常に言われる言葉があったのです。

 

「 二階なんて何十年も上がってないわ」

「 この歳になって思い返すと本当に平屋にしとけば良かった 」

「 そのうち2階も上がれなくなって息子に服を持って降りてきてもらう 」

「 二階が必要なのは、ほんのひと時子供が巣立ってからは上がりもしない 」

「  階段が危ないわ 」

「 二階に部屋が多いのはいいけれど一階に収納が少ないわ 」

「  こんな大きな家、困るだけ 」

「 家が大きいと雨漏り一つにしてもお金が掛かる 」

「 大きな古い家はリフォームするにしても多大な金が掛かる 」

「 潰せるなら潰して小さな平屋がほしい 」

そういった切実な声でした。本当に何百人と言う単位で聞いたのです。

 

会社設立後5年を過ぎたあたりから「 新築事業がしたい 」

「 どうせするなら平屋専門にしたい 」と思うようになり

 

そのうち「 平屋しか建てたくない 」と思うようになってきました。

「 介護専門でなくても少しでも将来の事を考えて作りたい 」

「歳を取ってまた一階部分の増築などに費用を使うぐらいなら最初から

 平家を建てた方が後悔しないに決まっている!」

「大きい家のメンテンスの大変さ、親族の困りよう・・・デカい家も

 考え物だな・・・。後で困る・・・。」

と思うようになりました。

 

リフォームの現場でも辛い出来事はありました。

他メーカーで新築をされ、その引き渡しの翌日に壁を壊しに行ったことがあります。

お施主様は笑顔一つありません。

 

我々は最高の仕事をして新築したものと変わらないリフォーム施工をしました。

それでも全く喜んでくれなかったのです。その時は深く聞けませんでした。

 

しかし集金の時でした。

「 実はね・・・・作る時から車いすを使うって話をしていたの。有名メーカーで一級建築士さんが親身になって話を聞いてくれたのだけれども・・・・実際に出来たら使えなかったの・・・」るほど。年間800件のリフォームをしている私たちはすぐにピンと来ました。

「 車いすが通れる 」と「  スムーズに使える 」は百倍の差があると思います。

 

建築の業界にいてすごく思う事があります。

家を建てる場合、家の人は素人です。建築側はプロです。

 

そして建築士は「 使い勝手 」よりも「 建築確認申請をおろせるか」「 建築基準法上どうか 」とか「 施工しやすいモジュールかどうか 」とか「 いつも使っているメーカー物のが入るか 」とか本当に住む人の事を考えることよりも建築基準法や都市計画法などの「法律」が考えの中心に来てしまいます。

 

全ての方では無いですが、使い勝手において確認不足で進む場合が多いのです。

最低限車いすを使うなら

 

  • 自分で操作されるのか

  • 人に押してもらうのか

  • 高齢疾患か若年障害があるのか?

  • どのくらいのレベルを想定しておくのか?

  •  

ぐらいは最低限話し合わねばなりません。

 

自分で操作する場合は当然高齢の場合力もありません。麻痺等の疾患が絡むと尚の事操作は困難になります。幼い方の場合は成長も視野に入れます。

一番悔しいのは車いす1つも持ってこないで図面上だけで実際によく分からない

家の方とお互いがあいまいな基準で進めてしまう事です。

そうなると出来上がってから気づく羽目になります。

図面で面倒な事をしなくても一度本人に会い、その上で少し介護用品を使ってみるだけでも相当な事は想定できるはずです。

 

怒りさえ覚える事も多々ありました。当然全てではないけれども今回新築で壁を壊しに行ったケースも建築基準法を違反している訳ではありませんのでお客様の負担でやり変えることになっていたようです。介護保険制度が使えましたので安い費用で出来ましたがほんの少し考える、想定していない範囲は伝える、など一緒になって真剣に考えねばならない事も本当に多いのです。

施工側も施主側もある一定の責任はあるかと思いますが、やはりどちらかと言えば作り手側、プロである側が最大限の努力をし誠意をもって対応すべき事件だったと思います。

 

また逆にそこまでしなくてもいいのに介護施設のように過度な設備を使った住宅も見てきました。「 少しだけ気を配る 」だけでずいぶん違うのだなとリフォームを通じて感じました。

■第7章 平家工房グループとの出会い

そんなリフォームをしながら、人の入れ替わりや色んな出来事に追われながらも日に日に

「 早く平屋専門の新築事業をしたい 」言う想いと焦りだけが募って行きました。

 

しかし私は逃げていました。

「 今は人が辞めて大変だからこれが整ったら 」

「 今は新しい事業部で手一杯だから人が入ったら 」

「 今私が抜けたら売り上げが一気に落ちて赤字になるから難しい 」

 

色んな言い訳をして「  絶対に平屋専門の新築事業部を作る 」という自分の一番やりたいことから逃げていたのです。そして知りゆくリフォーム屋さんが軒並み新築事業部設立を目指しつつもリフォームに追われ事業の形になって行かず、失敗するのを何件も横目に見ては「 それは、なかなか難しい事や 」と言い聞かせていたのです。

人材の確保や、売り上げが立たない期間の資金繰り、初期投資の借り入れ、人材の不足、言い出したらきりがないぐらいのマイナス要素しかなく、言い訳をしている限りは一向に前に進みませんでした。

 

そんな時でした。転機が訪れます。

住宅改修事業部の若き獅子「 大東辰矢 部長 」は僕が毎日のように「事業部作るから、任せたで」という言葉とは裏腹になかなか進まない様子を見ていたのでしょう。

 

「 社長の机を早く片付けてください 」と一言。

そうです。横に作った介護用のショールームに僕だけ移る予定だったのです。

「  邪魔だ! 」と言わんばかりに追い出されました。

 

本当に嫌だったのか、僕の事を思って言ってくれたのか定かではありませんが、彼の言葉を機に新しく机を置き、新築事業部に専念できるようになったのです。

彼は「  社長に新規事業部を専念させてあげよう。そのために僕たちが売り上げもカバーし安心できるようにしないといけない。こちらが気になるようでは専念できない 」

そういって先陣を切って既存の事業部を引っ張ってくれたのです。

結果・・・僕がいる時よりも業績が良いという結果になりました。

 

実は彼らの能力を奪っていたのは僕かもしれません。自主性や自律を引き出せていなかったのです。心から信じ、承認し、許す。感謝する。個性を認め、足らずを助け、人間として尊重する。そんな事が少しだけ分かるのに10年も掛かったのです。

 

いろんな経験を通して本当に社員の皆には頭が下がる気持ちでいっぱいの中 2017年10月秋から新規事業部の設立準備をすることが出来ました。

 

家を作る技術的な事は基本的に問題ないとして一番の課題は

平屋専門の会社として運営できるか?が大きな課題です。

 

調べると平屋は10%。

100人家を建てる中の10人しか平家を建てません。

100人集客して建てるのは5~10%と言われています。

知名度の無い弊社は5%とすると

1000人集客で100人平屋希望。そのうち5%しか建てないなら?

年間10棟が目標なら? 年間2000人集客????とんでもないな・・・・

 

そんな計算をしていました。できるのかな?大丈夫なのかな?・・・・と

とにかく「 やる 」と決めた以上結果を出したかったのです。

でないと今頑張って既存の事業部をしている皆に申し訳ない。焦る気持ちで一杯でした。

 

そして手っ取り早く技術を教えてもらおうと「 建築会社コンサル 」に来てもらって即入会をしました。

 

600万円割賦で支払う契約です。私にとっては、とんでもない先行投資で大冒険初めてこんなに高い自己投資をしました。売り上げが無いのに・・・。しかし私に迷う時間はなかったのです。一秒でも早く皆を安心させたかったのです。そして2回勉強会に行き相談もしました。

 

そこでは「 小林さん。平屋を建てるのは10%。平屋専門は自殺行為です。我々のお客様の中にも成功した人はいません。ただでさえ認知度も無いのに・・・。二階建てで実績を作ってから平家が得意な工務店良いじゃないですか? 」

 

と言われました。相手は成功した工務店をたくさん知っているプロ。それは僕の計算でも2000人集めないと年間10棟も出来ないという数字・・・・でも・・・・僕は二階建てを建てたいのではない。

「 小林さん。あなたが売りたい家と、お客様がほしい家は違いますよ。結果出してナンボですよ  

 

この一言で心が折れました。

 

二階建てでスタートする事となり、直前まで準備を進め屋号も「 スマイルホーム 」

と決め、チラシを打つ直前まで準備しました。直前に何度かまた勉強会があり出席しました。

 

そこでは「 見込み客を今すぐ客にする方法 」とか「 年収を見抜くテクニック 」などを勉強したのですが、ここで目が覚めました。まずお客様に対してそのようなテクニックなんて必要なのか? そんなことしないと家が建てられないのか? 年収も大事かもしれないけれど話を聞く前からそのような目で夢を膨らませたお客様を見ないといけないのか??

 

会社に帰り嫁さんと社員の皆に「 すまない。600万はドブに捨てた。もう行けない。僕はやっぱり自分がやりたかったことがやりたい。困難な上に上手くいく保証もないけれど、やっぱり変なテクニックは使いたくない。我々の目標は喜んでもらうこと。自分の命の時間を削って家造りに加わらせて頂くなら、自分だって心底一緒に喜びたい」

 

みんな呆れて苦笑いしてましたが「 それが良いよ 」と言ってくれました。

そこから僕が調べたのは「 平屋専門 」で成功している会社でした。

その当時本当に少なかったです。ほとんど検索もヒットもしませんでした。

 

群馬に一件、九州に一件、でもそこでついに発見したのです。

「 平家工房グループ 」という山口県の工務店数社で結成した平屋専門グループです。山口県ではグループ全体で数百棟を作り平屋のブームを作ったすごい集団でした。

 

実は二年前に平屋を作りたい一心で自分の家は兵庫県にも関わらず山口県の平家工房グループ「スメスト」の小川社長さんに客のふりをして、資料請求していたのです。        今となっては大変申し訳のない失礼な話です。そして、その資料をずっと机に二年間保管していました。本当に御縁としか思えませんでした。

思い切って今回の事をスメストの小川社長にメールしました。凄い長文でした。小川社長は僕の想いを汲み取って下さって「 山口に勉強に来たら? 」と言って下さいました。ご自身も建築コンサルにお願いした事があり他人事とは思えなかったのでしょう。僕は嬉しくて、すぐに飛んで行きました。

 

お出会いする前から、ほぼ一人で年間10棟を10年間継続されていましたので、まさに驚異的な事だったのですが、当時はその凄さも分かりませんでした。

凄く忙しいに決まっています。でもそんな忙しい時間でも僕にたくさんの事を教えてください、たくさんの大切な時間を提供してくださいました。今でも小川社長の言葉には本当に救われることがあります。絶対にぶれない価値観に人気があるのは明白に理解できました。

 

そしてグループリーダーの「 桧垣社長 」を紹介して頂きました。この方こそ本当に平家が見向きもされない時から、一人で自分自身でポスティングをしつつ、仲間を募り平屋専門のグループを作り上げた創始者です。今も尚年間10棟~20棟のペースで建て続けています。僕からしたらお二方とも超強烈な人柄でその凄さに圧倒されるばかりでした。最高のお手本に出会えたのです。

 

考え方も「お客様のペースに合わせる。不要なテクニックや訪問、電話はする必要が無い。相手から建ててほしいと思う努力をすべき。」完全に意見が一致したのです。

 

一番印象的なのは桧垣社長が(多分ご本人は覚えていない)電話窓口で「 その規模なら大手ハウスメーカーの方が良いんじゃない?うちは少し違うから 」といってあっさり断っていたことです。強烈でした。

 

小川社長も「 僕は仕事をしたい人としかしない  」とおっしゃってました。

いくら金額が高くてもポリシーに合わない客は断る。究極だと思いました。

そのような本物の方に出会えたおかげで環境や地域のせいにせず自分でも絶対に同じレベルまでは行ける。だって目の前に最高の見本があるから。実際に結果を出しているから出来るに決まっている。そう信じて取り組むことが出来ました。

​他にお二方と同じぐらい歴が長く沢山平家を建てている「ハートフルホーム」 西田社長、 若く勢いのある「NEXT松尾」の松尾社長、「平家工房 下関」の正司社長みなさん平家をたくさん建てていく事を目標に日々励んでいます。僕も歴が浅く皆さんにはまだまだ遠く及びませんが少し離れた兵庫県ではありますが​、負けずに頑張りたいです!

兵庫県ではまだまだ多くの問題があるかもしれませんが、私は状況には関係なく、住むなら平家、私が最期を迎える家も平家と決めています。

 

二階建てやエリア外の話などがあれば丁重にお断りしております。

沢山の人にバカにされました。

沢山の人から笑われました。

身内や社員のみんなも呆れていました。

​「上手く行くはずない」って。

​でも、

真に平家しか建てないビルダーとして絶対に兵庫県で一番平屋を建てる会社になりたい。

 

そして「 平家タウンをつくる 」事を目標に日々平家造りに励んでまいります。

 

平屋バンザイ! これからは確実に平家の時代が来ます。みんな真似してきますよ!

そうやって平家が増えて行けばいいのだ。​わっはっは!

                 

平家仕掛人  小林 光夫 

 

 

 

■第七章 平家工房グループとの出会い

 

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